垢で垢を洗え

都会人に地方を馬鹿にされた。カンカンである。
その都会人には、地方出身者を馬鹿にしたという気は、サラサラないであろう。だが、あれはれっきとした侮辱である。私は怒っている。怒っていることも知らないだろう都会人に、ますます怒る。スン、とした態度が、気に食わない。

それは、ある授業の後だった。同学年の履修者同士で集まって、談笑していた。ふと、一人暮らしの話になった。私は、住んでいるところの話をした。有楽町線の話をした。そしたら、そこにいた東京人は、有楽町線の話をされても、分からなかったようだ。それが、気に障ったのかもしれない。その人は、私に向かって、私より東京に詳しくなっちゃって〜、と言った。む、と思った。足掛け2年住んでるんだから、詳しくもなるだろう。地方出身で、メトロに詳しくて、東京出身で、路線に詳しくないことだって、あろう。私は少し、む、としたが、それは飲み込んだ。

問題は、その後である。今度は違う人が、私に、就職はどっちでするの?と聞いてきた。地元か、東京か、ということである。そりゃ、東京しかないので、東京、と答えると、その人はこんなことを言ったのだ。
「地方の人の方が、東京に残りたがるよね」
この言葉に、私は激昂した。明らかな、侮辱。その人の顔面を、ぶん殴りたい気持ちになった。何が、何が地方の人は東京に残りたがる、だ。馬鹿にするな、馬鹿にするな。事情を知らないにも程がある。喋るな。しかし、その人は、私の気持ちなんか知りもせず、続けて、無遠慮に、自分の地元、埼玉の自慢までし始めた。埼玉は、東京に近いし、でも東京ほど人も多くないし、快適。埼玉を、出ようと思わない、東京に、住もうと思わない、なんて言うのである。よく、そんなことが言えたものだ。のうのうと、暮らしているから、言えるのだ。腹立たしい。腹が立つ!お前に、何が分かる。

だいたい、就職はどちらでするのか、というのがまず愚問。言いたくはないが、この大学を出て、地方に帰っても、就職先などない。就職活動のために、地元に帰るくらいなら、初めから地元の大学に行っている。地元は、学歴社会。都会人が思っているような学歴ではなく、もっと歪んだ、ひどい序列。この世の中で一番いい大学は、Q大で、その次は、K大。国立大であることが、全て。県名が頭につく大学こそ、素晴らしい。私立は、ダメ。親不孝。しかし、私立でも、S大とか、F大とかなら、まあいいだろう。こんな具合なのである。私が、自分の大学を名乗ったところで、誰も分かりやしない。私は、それを承知で、ここに来た。つまり、地元を捨てて、来たのである。それを、どっちで就職するの?なんて、無知。恥。

まあ、知らないのは、いいだろう。知らないのは、仕方ない。しかしその後が、まずかった。地方の人こそ、東京に残りたがる、この言葉、あまりに私を、馬鹿にしている。それは、お前が、関東出身だから、言えるのだ。東京も近いし、便利だし、そりゃ、東京に出て来なくても、いいだろう。埼玉が好きなら、どうぞ、残りなさい。埼玉の良さなんて、いついくら言っても、一向に構わないが、あたかも私を、東京に魅入られている人のように扱い、私を馬鹿にした上で、自慢げに語るのは、それは、それはあまりに失礼だ。

ああ、なぜ都内人は、こんなに無遠慮なのか。何となしに、私を馬鹿にできるのか。それでいて、私のことを、地方へのコンプレックスを持った人間などと、評するのだろうか。

太宰治の文学について、都会の学者が、太宰の根底にある、地方出身者であることのコンプレックスが、とかなんとか書いているものを見ると、辟易する。何も、分かっていない。太宰を読む資格が、全くない。文章を読んで、分からないか。彼の、地元への、愛が。青森出身であることを恥じたことなんて、一度もないに、決まっている。地方出身者が言う、地方はだめだとか、都会はいいよとか、そういうものは、全部、照れ隠し。本当は、誰だって、自分の地元が一番だと、思っている。地方において、身内を下げて悪く言うことが、最大の賛辞であると、知らないのだろう。

もし、コンプレックスというものがあるとするなら、それは、東京へ出てきたことへの、コンプレックスだ。

一昨日、地元からはるばる姉が遊びに来て、二人で、東京をまわって、東京のど真ん中で、二人だけ、筑後弁を喋って、ちょっと、浮いていて、その切なさと、楽しさたるや。姉が帰り、寂しさに堪えかねて、一人でバスに飛び乗り、向かったお台場で見た、レインボーブリッジの輝き。Instagramに投稿したら、同じく、地元から東京に来た子がくれた、いいねのハートの、あたたかさ。

私と、地元の、複雑な距離感を、解さぬ都会人に、送る文章である。

早く大人になりなよ

全然書くことがない。自分でもびっくり。
なので安上がりなおかずの作り方でも書こうと思いましたが、ブログ部一人暮らしの人めちゃ少ないので需要がなさすぎる。やめた。

最近親をガッカリさせてしまった。ガッカリしてる親を見てガッカリした。アナウンサーになりたいです!って言って上京してきて、アナウンサーなるのやっぱり辞めましたマスコミの24卒本採用もう終わってますとか言い始めたらそりゃガッカリすると思う。

いや普通に早すぎる。採用が。3月に就活解禁です!みたいなニュースを流しまくるそのマスコミが、半年前に本採用終わらせてるのズルすぎる。テレビも新聞も。23卒は3月時点で内定持ってた人が就活生の約半分だった……ちょっと事実かどうか怪しいけど大体そんなニュースを見た。たぶん、いま内定持ってる人いるよ、大学三年生で。内々定、内々々定、内々々々定、ゲジュタルト崩壊。

全然病んでないです。夏休みちゃんと羽を伸ばしたので。体も心も休めたので。つまりね、元気な文章を書いている時の方がひどい精神状態だったりするということです。のびのび生きているとのびのびした文章になります、こんな感じに。

社会を知った人が、最近の若い子は自分を責めればそれでいいと思ってる節がある、と言っていた。自分なんて全然ダメだ、社会に向いてない、無理、無理、クビになりたい、そうやってダメだダメだ言いまくることで、逃げている。自分がダメならどうすればいいのか、社会に向いてないところがあるならどうしていけばいいのか、自分を改善しない。辞めます、じゃなくて、クビに”してほしい”。分かるよ、分かる。でもさ、それがジェネレーションZ、Z世代。どうぞご贔屓に。

大学の私の友達、思春期反抗期なかったです、という子が多い。ままならない自己の葛藤を親にぶつけてしまったり、しないらしい。スン、と大人しく生きてきたのか。私なんか、母親と怒鳴り合い。人の前で怒りをあらわにすることに躊躇いがないので、高校でも結構激しめに他人に怒りをぶつけたことがある。険悪になっても、次の日ごめんねって女の子同士で抱きつきあって、ほっぺを触り合ったりして、仲直り。母親とも、怒鳴り合いの喧嘩のあと、大爆笑でテレビ見る。中高生の頃なんて、そんなもんだと思っていた。怒って笑って泣いて笑って。でも、スン、と生きる道もあるようだ。その方が、いい気がしてる。早く大人になりなよ。

8月に入選した新作短歌でも書いて終わろう。

作者の都合上削除されました

あ、夏

夏に何か期待するのはやめてほしいよなあ。勝負の夏、なんて馬鹿らしい。夏は、ゆっくり休むためのものだろう?その夏休みに、勉強だの、就活だの、何の役に立つんだい。僕はねえ、今まで夏休みに、全く家に帰らずに塾で勉強したり、アルバイトをしたり、免許をとったりしたが、一体何になったっていうんだい。僕が夏に呆けているうちに、父親は目を悪くし、母親は内臓を悪くした。もう、どこへもいけやしないよ。旅行できる体力なんざ親には残っちゃいない。親孝行はできる時にしておけ、とか言うけどねえ、親孝行できる時間とお金なんて、一生ありゃしないんだよ。僕の母親はねえ、外が好きなんだ。家に篭るより、車で出かけるのが好きなんだ。それがなに、年とともにどうも狭いところが苦手になってねえ、車にも電車にも飛行機にも乗れなくなっちまった。死ぬまでにフランスのベルサイユ宮殿に行きたいって言ってたけども、無理な話よ。フランスはおろか、県外にも行けねえ。このまま田んぼに囲まれて、いや、もう田んぼじゃなくて工場群になるんだったか、そんなものに囲まれて、じっと老いを待ちながらいなくなってしまうのかねえ。淋しい話だ。僕はもう親孝行について考えるのをやめたよ。考えたって、どうにもなりゃしないんだ。母親はよく、あたしゃが死んだら分かるやろうね、なんて言っているが、なに、死ぬ前に分かっちゃいるよ。僕には何にもできゃしない。もう何も救えないし、誰も救っちゃくれない。孤独っていうのは、親がいないから味わうもんじゃない。周りに人がいたって、孤独は孤独なんだ。父親だってねえ、すっかり頑固親父になってしまったよ。僕が何か言うと、すぐ怒るんだ。どうやら目だけじゃなく、耳も悪いみたいだ。僕の声も母親の声も、全部悪態に聞こえるみたいだ。もう、話ができゃしない。こんな状況で、家族旅行に出かけたとしよう。喧嘩喧嘩、喧嘩続きで最悪な思い出が出来上がるに違いない。だいたいねえ、僕の記憶の中に、母親の機嫌が悪くならなかった家族旅行なんてないんだ。父が温厚だったから、まあその場はなんとかなっていたが、今はその父でさえ怒りっぽいんだよ。家族旅行なんざ行ったら、一体どうなっちまうんだろうね。僕はその責任を負いたくない。だからほら、親孝行なんてできないんだよ。まあいい、夏の話に戻ろうか。まず夏ってものに期待しちゃあいけないよ。夏に何かしようなんて思ったところで、何にもしやしないし何にも変わりゃしない。ただ、出来なかった事実と、後味の悪い後悔が残るだけ。大事な夏、なんてもんはないんだよ。どう過ごそうが夏は夏。夏は夏。夏は夏。3回唱えてカレンダーを見る。今日は8月31日!ああ!もう夏は終わる!なんて僕は馬鹿なんだ。夏はこうだ、ああだと言っている頃には、もう夏は終わりかけている!そしてやはり、僕は夏に何もできなかった!やはり夏は夏。どうにもならない。どうにもならないから、夏。

最近車をガードレールにぶつけました…ああああ…夏

送り火

 内地はつまらないところだ。神戸の街を歩きながら、貞子はそう思った。街は煤け、人々はボロ切れのような着物を着ている。これから何を信じて生きていけばいいのか分からないのだろう、意味もなく勉強させられている時のように、目の奥になんの光もないような人たちがノロノロと歩いていた。夕焼けに街は真っ赤に燃えていたが、人々の心には情熱ひとつ感じられなかった。

 貞子が神戸に来たのは、つい数日前のことだった。思えばここ数日は、一年がいっぺんに過ぎ去ったような、そんな日々だった。貞子は大連に生まれ、大連で育った。なに不自由のない暮らしを送っていた。だが日本が戦争に負けたことを知らせるラジオを聞いた日から、大連での生活はすっかり変わってしまった。いつかここを離れなければならない。だが、それがいつになるのかは分からない。宙ぶらりんな生活がしばらく続いた。そして終戦から一年ほどたった頃、引き揚げ船が来るという噂が流れた。ああ、ついにここを離れる日が来たのだと思った。内地は女学校時代の故郷訪問で一回行ったっきりだったから、今どんな状況なのかよく分からない。よく分からない「故郷」に行くくらいなら、ずっと大連にいたいと思った。だがそんなことを言っていても仕方がない。戦争が終わってから、外では中国人が暴動を起こしているし、ソ連兵は家に侵入して金目のものを持っていく。内地に帰るしか選択肢はなかった。
 内地に帰ってきて、大陸は恵まれていたのだと感じた。もう、大連は日本のものではない。日本のものではないからといって、私の生まれた場所でなくなるわけではない。けれど、帰る場所ではなくなってしまった。大連に残してきた父と母のお墓にも、いつお参りに行けるか分からない。気づけば私も内地の人と同じように、希望も何もない顔をして歩いていた。だめだ、だめだ。私は大連生まれなのだ。東京よりも華やかな街で育ったのた。女学校にも通っていたのだ。放課後は友達とタクシーに乗って喫茶店に毎日のように通っていたのだ。家に帰れば、纏足の使用人が「お嬢様」と迎えてくれていたのだ。こんな私が、煤けた街で、土気色の顔をしていてはいけない。

 貞子が家へ戻ると、ちょうどお姉さんが庭に出ていた。
「あら、貞ちゃん帰ってきたの」
「うん、ただいま」
「神戸の街はどう?大連に比べたら田舎だけれど、ここもなかなか悪くないでしょう。まだまだ慣れないこともあると思うけれど、ゆっくりして行って頂戴ね」
お姉さんはテキパキと喋って、家の中へ消えていった。貞子はなんとなく家の中に入る気になれず、土間に座った。ゆっくりと沈んでいく太陽を見ながら、ぼんやりと引き揚げの時のことを思い出していた。
 引き揚げ船に乗る前に、ソ連兵の検閲があるらしいと聞いた。金目のものを持っていることが分かったら、その場で殺されるかもしれない。女だと分かれば、どこかに連れて行かれるかも分からない。貞子は長く伸ばした髪を坊主にし、今までに大連で撮った写真だけを腰に巻いて、引き揚げ船に乗り込んだ。引き揚げ船の中は暗く、暗く、これからどこへ連れて行かれるかも分からない、本当に日本へ帰れるのかも分からない、不安な空間だった。時折船が大きく揺れるたびに、貞子の気持ちも大きく揺れた。この船が日本のどこについても、今までの生活は帰ってこない。きっと今まで経験したことがないような苦労が待っている。それでも、帰るしかない。腰に巻いた写真をぎゅっと抱きしめ、船が到着するのを待った。
 船は博多に着いた。博多は引き揚げ者たちで溢れかえっていた。内地に親族がいる人たちは列車にパンパンに詰められて、それぞれの地方へ向かった。貞子は神戸で暮らすたった一人の姉を頼り、神戸に向かった。
 神戸に着くと、姉は貞子をとても歓迎してくれた。無事でよかった、無事でよかったと、涙を流しながら貞子の坊主頭を撫でた。そして、ここでは自由にしていいからね、と部屋の一室を貸してくれ、貞子の神戸暮らしが始まったのであった。
 初めは物珍しく楽しかった神戸での生活も、次第に居心地の悪いものとなった。街も人も灰色で、活気も何もない。大連で聞いていた内地の様子とはひどく違っていた。姉は貞子に優しく接してくれており、神戸の家での生活に不満はなかった。だが姉も終戦後、生活を切り詰めて暮らしていた。貞子が来たことで、姉一家の生活を圧迫していることは明らかだった。

「あら、貞ちゃん、こんなところに座って何をしているの」
土間に来ていた姉に声をかけられ、貞子は顔をあげた。日は今したがた落ちたようで、あたりは段々と暗くなっていた。
「お姉ちゃん、戦争は、終わったんかねえ」
貞子は呟くように言った。
「そうねえ、暮らしは全然楽にならないし、まだ終わってないみたいよねえ」
「戦争が終わることは、あるんかねえ」
「貞ちゃんが、戦争は終わったと、思った時が、終わった時なんじゃないかしら」
「そういうもんかしら」
「そういうものよ」
姉はもう用はないと思ったのか、暗くなる前に入りなさい、と伝え家の中へ消えていった。
 貞子はしばらく考えていた。戦争は終わったと思った時が、戦争が終わる時。この街に居続け、姉の家に世話になり続けて、果たして戦争が終わったと感じる日は来るのだろうか。自分一人で新しい土地へ行き、仕事を見つけ、生活をしていった方が、もっと面白いのではないだろうか。もちろん大変な苦労が待っているだろうけれど、それでもその苦労の中に、何か見つけられるのではないか。つまらない顔をして、つまらない街で生きていくより、よっぽどいいのではないか。貞子は街を一刻も早く出たくなった。どこへ行っても、内地は内地だから、変わり映えしないかもしれない。けれど、どこかへ行けば、何か変わる気がする。貞子は衝動を抑えきれなくなった。急いで家の中へ入り、荷物をまとめた。大連から大事に持ってきた写真を抱え、今までお世話になりました、と手紙を残し、貞子は家を飛び出した。どこかに着いて身を落ちつけてから、お姉さんにはゆっくり手紙を出そう。私がいるせいで生活は苦しくなっているのだから、無理に止めることはしないだろう。それよりも、今、行動したいのだ。
 戦争を終わらせる。激しい思いを抱いて、貞子は神戸の街を去った。日はすっかり落ち、深い闇が貞子を包んでいた。

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あとがき

 福岡生まれ、福岡育ちのもこです。私が福岡で生まれ育った理由は、引き揚げ船が博多港に着いたから、それだけです。本籍地があるとか、代々福岡に住んでいるとか、そういうことではありません。
 貞子とは、私の父方の祖母の名前です。祖母は私が生まれた時には亡くなっており、私の父も高齢になり記憶があやふやなことから、今回書いた文章にはフィクション性が強い部分も多々あるかもしれません。しかし、虚構を恐れ、何も書かなければ、誰に伝えることもできないと、私は思いました。
 私は自分自身について考える時、自分の背後には必ず戦争というものがぴったり引っ付いているのだと感じます。父方の祖母は大連生まれ、祖父は台湾生まれ、どちらも引き揚げ者です。そして母方の祖母は長崎生まれ、原爆の影響なのか、長崎の親戚はどうも短命です。
 あの時、懸命に生きた人たちのおかげで、私たちは今ここにいます。8月15日は、戦争が終わった日であると同時に、戦争についてじっくり考える日です。私たちの世代にとって、戦争はもう、馴染みのないものかもしれません。しかし、いま私たちが生きていること、このことに思いを巡らせる時、やはり戦争について考える必要があるのではないかと、私は思っています。
 2022年8月15日 もこ

確か君の苗字は珍しかった

何を書こうか、色々と迷ったけど、今しがた面白い出来事があったので、それを書こう。

何気なくInstagramを開いたら、高校時代のクラスメイトがインスタライブをやっていた。
なぜ?と一瞬思ったが、とりあえず参加してみた。参加者は私以外にいなかった。

その人はお台場にいた。お台場でレインボーブリッジを眺めながら、何もやることがないので配信を始めたらしい。私はその人の近況をよく知らないので、彼がなぜ今お台場にいるのか分からなかった。

その人はずっと京大を目指していた。現役の頃は落ちて、私と同じ予備校に通っていた。その後の消息は知らないままだったが、かなり賢い人だったので、京大に行ったとばかり思っていた。

京大はねえ、10点足りなかったんですよ、と彼は言った。私は笑いながら、私なんて1点だよ、と返した。するとその人は、うわぁ、と喉の奥から辛そうな声を出し、私以上に悔しがった。

お互い色々あって、東京に来たんだと思った。
画面に映し出されたレインボーブリッジの先には雷が光っていた。

その人は渋谷と横浜の間に住んでいると言った。東横線?と聞くと、そうそう、と言われた。私は副都心線沿線だよ、と言うと、あーなるほどね、と言われた。電車なんて、西鉄しか知らなかった私たちが、標準語で、東京の路線の話をしている。可笑しくなった。不自然とは、新しく獲得した普通のことだ、なんて思ってみた。

高校の頃の話をした。私たちの高校が持つ嫌な文化を思い出して、あれは嫌だったね、と言い合った。

大学の話をした。1年生の頃は、全部オンラインだったよね?うん。ずっと福岡から受けた?うん。
やっと今普通の授業してるよ。分かる。1,2年生の頃大学の人と話す機会なかったもん。分かる、てかサークル入るタイミングあった?なかった。よね?笑

中学校の話をした。その人の中学校は、地元で一番の不良学校だった。運動場を原付が走り回り、テスト中に爆竹がなる。タバコを吸うのは当たり前。中学生がタバコを吸っていても注意されないけど、ノーヘル(ヘルメットをつけていない状態)で自転車に乗ると注意される。そんな学校。

東京にくると、そんな学校が存在していたことも、自分がそんな学校出身であることも、忘れてしまう。大多数は実家暮らしで、きちんと教育を受けていて、ありえない貧困も暴力もない。ない方が幸せなのに、それらが全く存在しない世界に来ると、声をあげたくなる。ワッと人を殴って、万引きをして、河川敷を走り逃げる。そんな血が、彼と私の間には流れている。

まあ、私の中学校は、地元で一番の大人しい学校だったが。その人の出身中学校の人とは極力関わらないようにしていたが。そしてもちろん二人とも、大人になるまでタバコを吸ったことはないし、万引きなんてしたことないし、ボコボコに人を殴ったりしない。でも、血というものはある、そういう話。

話は尽きないが、無理やり中断し、私たちはお互いが干渉し合わない世界に戻った。

濃ゆい、時間だった。

5年前アンコールトムで見たゾウへ

出窓から真夏を眺め左手でサイダーの瓶の結露をはらう

 切らしていたハンドソープを買うために、鬼子母神通りの中程にある小さな薬局へ向かった。黄色いテント看板に、青い文字で「キク薬局」と書いてある。店の前には洗剤やら殺虫剤やらの日用品が並んでいる。それらの商品棚と商品棚の間に、店の入り口がある。店のドアは手動で開くような見た目をしていたが、近づくと自動でゆっくりと開いた。
 中へ入ると狭い店内に商品がまばらに陳列されていた。右の方を見やると、古めかしい明朝体で「調剤室」と書かれた部屋があり、ガラス窓から中が覗けるようになっていた。その部屋には古い薬品が壁いっぱいに並んでいた。地震でもあった際には一体どうなるのやら、少し恐ろしい気もした。
 店内の空気に飲まれ、何をしにきたのか忘れるところであったが、私は無事に本来の目的を思い出し、近くの棚からハンドソープを取った。レジに持って行くと、年は60過ぎくらいの、眼鏡をかけた、小さいおじさんがいた。レジに人がいることはいたって当たり前のことだが、店内に私以外の人間がいたことにやや驚いた。店に入り、調剤室を眺め、ハンドソープを手に取るまで、このおじさんはずっとここにいたようだ。
 商品をレジに置くと、おじさんは手に持っていたタオルでその商品を拭いてくれた。そのタオルはおじさんの手汗やら何やらで黒く汚れていたので、私は少し顔をしかめた。長らく買う人がいなかったために埃をかぶっていたハンドソープのパッケージは、おじさんの気遣いによって少し艶が出ていた。
 「240円ですね、」とおじさんは言った。私は代金を支払い、商品を受け取った。ふと見ると、おじさんの胸には「薬剤師」と書かれた名札が光っていた。ひとつも埃はなく、怪しい艶もなく、よく輝いていた。

椿の花は、ぽとりと落ちる時に、その周りの空気まで持って落ちて行く。自然に落ちる時は、周りの空気を優しく拾って落ちて行く。強風に吹かれて思いがけず落ちる時は、周りをごっそりと引き連れて落ちて行く。葉や枝を伴って落ちることもある。それは強風に吹かれて落ちたのではなく、椿が落ちる衝動で落ちたのだ、と私は思う。

思いがけないことの衝撃は、いつだって大きい。

先週、生まれて初めてシーシャを吸った。友人がシーシャ屋さんで働いているというので、行ってみたのである。労働をしている友人を横目で見つつシーシャを吸うのは、なんとも申し訳ない気持ちになった。
紅のソファとソファの間から働く君見て吸う水たばこ
嫌な短歌ができた。申し訳ない気持ちとは裏腹の短歌だ。振り払うように、シーシャを大きく吸い込んで、煙をたっぷり吐いた。

友人は時折私に話しかけてくれた。私以外の人間への接客と、接客以外の仕事と、私への気遣い、全てをこなしている。すごいなあ、と漠然と思いながらシーシャを吸う。真の美少女は君だと思う。

昼下がりシーシャの煙に包まれて君のワンピが白く揺れる

にんにく冷やし中華あっため

期待値×0.5の味。もともと、そんなに期待はしていなかった。けど、見た目とにおいが本物だったから、期待値を上に修正した。それで口に運んでみたら、ホラ、違う。学食の、熊本ラーメン。にんにく冷やし中華あっため、です。

九州・沖縄フェア、苦手。慣れ親しんだ名前の料理に期待するのは、慣れ親しんだ味。そこにあるのは剥製で、血も肉もない、限りなく生に寄せた死なのに。日本の有名なキャラクターが、海外で真似されて、パチモンの不細工キャラクターになっていて、それが日本のキャラクターと同じ名前で呼ばれていて、親しまれていたら、日本人は怒るだろう?もっと簡単に言うなら、刺身のことを寿司だと言って食べている人がいたら、訂正するだろう?九州・沖縄フェアだと言って、東京の料理に九州料理の名前がつけられて販売されていたら、モヤっとするだろう。分かってくれ、地元愛が強いとかなんとかではなく、当たり前を指摘しているだけなのだ。

ちなみに、柚子胡椒のローマ字表記が、YUZUKOSYOとなっていた。残念。正しくはYUZUGOSHO、連濁する。

つまらない生き方をしていると、つまらない文章しか書けなくなるようだ。だめだ、だめだ。そういえば最近、太宰を読んでいないな。あのリズムに乗らないと、心が跳ね方を忘れる。最近はもっぱら魯迅。困っている。魯迅の作品は、魯迅の言葉ではない。翻訳だからだ。私は言葉が持つ、言葉を愛しているので、翻訳は少し、違う。魯迅という名前なだけで、中身は魯迅ではない。さっきの熊本ラーメンと同じ。もっと中国語を学んで、一冊くらいは原文で読もうか。中国人の先生が、あれは中国人でも読みづらいと言っていたから、当分先になるだろうが、私は魯迅の魯迅という味を知りたい。

私は今まで自分を超える存在に会ったことがなかった。もちろん、学力、体力、容姿、その他細かな能力で幾人にも劣ってきたが、自分の自分選手権においてはいつも自分は特別であった。自分以外に自分を超える存在などなかった。だが、大学に来て、ひとり、出会った。はるかに自分の感受性を超えており、それでいてさらにそれらを存分に文章で発揮できる存在に。

シビれる、というやつ。シビれる東京。でも、青森からやってきた太宰も、すごい、東京の人たちよりすごいよ。そういえば、東京生まれ、東京育ちで、太宰が好きな人に会ったことがない。新感覚派とか、新技巧派が好きな人には、よく会うが。

百年館7階の隅っこに、もこぽつり。日はどっぷり落ちて、空は群青。ブラインドから覗くと、聳え立つスカイツリーが見えた。あのてっぺんに登っても、そこから私の故郷は見えない。

嘘つきはドミノの始まり

イスを手作りしよう。長持ちするイスを作りたいから、丈夫な木が欲しい。オシャレなイスを作りたいから、木目が揃った木が欲しい。気が変わってタンスを作るかもしれないから、イスにもタンスにもなる木が欲しい。

木が欲しいと言ったけど、切りっぱなしの丸太はいらない。加工が面倒だから。使いやすい、角材が欲しい。でも、出来上がったイスを買いたい訳じゃない。今求めているのは、イスになりそうな、いい角材。

就職活動とは、こういうことなんだと教えてくれた人がいる。就職活動をしている時、私は商品となり、市場に出回る。腐った木も、尖った木も必要ない。けど、周りとおんなじ木じゃ、選んでもらえない。

I wish to live like what I really am.
Unfortunately, that seems to be looked nothing but a dream in this world.

All adults are lying to others, or even to theirselves, just to make them look well socialized. Such liars choose the new ones, which regenerates next liars.
A very simple, but crucial mechanism.
I have no choice but to make efforts to lie,and be chosen as their member.

That’s what the life in my age is all about, isn’t it?

高校の頃、自分の性格について書いてください、というアンケートが毎年あった。スペースは1行ほど。私は毎年毎年、こんな狭いスペースで語れるような人間ではありません、と書いて出していた。

就活セミナーの先生に、「言葉を選ばずに言うと、もこさんは不思議ちゃんに見えます」と言われた。笑止。変わった人間ではあるが、”不思議ちゃん”ではなかろう。あと、「急に文語で喋る時があるので、普段喋っている言葉で伝えてください」とも言われた。普段文語混じりに喋っていることまで指摘されてしまったよ。

人は皆、自分のために生きているけれど、それをうまく隠して、社会のために生きているように振る舞っている。ほら、優しそうな芸能人が、凄まじい性事情を暴露されている。

私の口が「ごめんなさい」と動く時、心は必ず「だから何?」と言っている。

文章を書くのは好きだけれど、今、文章を書くのが辛い。

今日今この時君におめでとう


5月17日は奇妙な日だった。

10時35分に目が覚めた。10時50分から始まる2限に行くか行かないか迷って、38分に顔を洗い、39分にマスクをつけ、40分に家を出た。49分に教室についた。

初めてすっぴんで授業を受けたが、案外自分の顔なんて誰も見ていないことに気づいた。

授業終わりに就職資料室に立ち寄った。最近気になっている業界に就職していた先輩の体験談を読んだ。熱意がある人を採用してくれる業界は素晴らしいと思った。自分を飾らずに生きていけるところで働きたいと思った。

学食に行って、塩ラーメンを食べてみた。あったかい冷やし中華みたいだった。

家でぐうたらしている同居人のためにマフィンとドーナツを買って帰った。早速家に帰って渡したら、もしゃもしゃ食べていた。人がご飯を食べているのを見る時、人は生き物であることを自覚させられる。甘いドーナツがいずれ自分の体の一部になると考えると、私は自分の肌を噛んでみたくなる。

うとうとしていたらいつのまにか4限が始まりそうな時間になっていた。化粧も面倒で、再びすっぴんで家を出た。前を歩く人が、私が愛用しているスカートを履いていた。高校卒業してすぐくらいに買って、東京にまで持ってきたスカートだった。随分前に買ったものが被るのは、変な気分がした。

教室の後方で授業を受けた。授業内容は私の体毛を優しく逆撫でするようなものだった。授業で扱った物語の登場人物は、女性らしさで男性社会に立ち向かっていた。私は男性らしさで男性社会に混じりたいと思った。

親からLINEが来た。私が愛用しているスタンプを、親が使っていた。ポイントをコツコツ貯めて手に入れたらしい。まさか親が影響されると思っていなかったので驚いた。

再び家に帰ると、一匹のクモが壁を這っていた。最近風呂で溺れていたのを助けてから、しばらく姿を見ていなかった。元気そうでよかった。こいつは昨年可愛がっていたクモの子供だということにしている。

カンダタみたいだと思った。もしこれから蜘蛛の糸が頭上から垂れてきたとして、下に続く数多の同類を蹴落とさない自信がなかった。

自分だけ助かろうとしたのが悪いのではなく、上を目指しているのに下を見下ろしたのがいけなかったのだと思った。途中で止まるから糸が切れるのだ。下なんて気にせず、上だけを見て登っていればいいと思う。

5月17日は本当に奇妙な一日だった。

夜に更新するつもりが昼になっていた

眠れない夜を繰り返したその先に眠れる夜があったとして、それが本当に眠れる夜だったのか、眠れない夜のせいで眠らざるを得なかった夜なのか、私には分からない。

ブルーライトを見続けた目が痛い。考えても仕方のないことばかり考えて、一日の始まりが終わる。

私はうつ病になったことがある。

うつというのは、世界がモノクロになるような病気だった。

毎日が楽しくないわけではない
小さなことで笑えるけど
大袈裟なことじゃ笑えない
いつもできてたことはできなくなったけど
何もできなくなったわけじゃない
毎日つまらないけれど
楽しい瞬間はあるし
死にたいけれど
生きたいときもある
(2019/11/15の日記)

今、私はうつではない。うつから、うつじゃなくなる瞬間というのは曖昧だ。モノクロの世界に、ひとつひとつ色をつけていく感覚。失った全てのものを、ひとつひとつ取り戻していく。

最近、音楽を取り戻した。

うつになってから、自分から曲を聴くことが一切なかった。他人から勧められた曲を、カラオケで歌うために学習することはあった。過去の曲を懐かしむことはあった。けど、自分から新しい曲を聞きにいくことはなかった。それが、ひょんなことで、自分から曲を検索し、何度も聞くようになった。何度も聞いて、ああ、私は今まで音楽を忘れていたんだなと思った。

そういえば昔はこんな風に音楽を楽しんでいたんだった。

“うつ抜け”してから何年か経ったけど、まだ失くしたままの感覚が残っていたことに驚いた。

ずっと失ったままでいると、それが日常になり、それがないということに違和感を抱かなくなる。
街で、テレビの中で、音楽を聞いても、何も感じない生活に、慣れすぎていた。

音楽がある生活は幸せだ。

うつになると、自分という存在はカラフルな世界に埋もれる。世界を真っ黒に塗りつぶさないと、自分の輝きが分からなくなる。だから、楽しんでいたもの、好きだったもの、全てを消し去って、自分を守るしかなくなるのだ思う。

そんなことをしなくても輝いていけると、今の私には分かる。

眠れない夜を繰り返したその先に眠れる夜があったとして、それが本当に眠れる夜だったのか、眠れない夜のせいで眠らざるを得なかった夜なのか、どちらでも構わない。大事なのは、眠れない夜を繰り返していけば、いつか眠れる夜が来るということ。

朝日に見つからないようにいそいそと眠りにつく。

今日はおやすみ