年一のプチイベント

皆さんこんにちは。みちこです。

早いもので、もう年の瀬でございます。2024年が終わります。昨今はインフルエンザが猛威を振るっている(特に今年のは感染力がとんでもない)そうなので、受験生並びにご家族の皆さまは特にご注意下さいませ。

かくいう私も前回の記事で書いた通り、一家(弟を除く、両親と私)でインフルエンザになった身なので、くれぐれもご自愛ください。

さて、今回は「プチイベント」というテーマで書こうと思います。

前回予告した通り、振り返りにしようかなとも思ったのですが、次回以降の更新に回そうと思いまして。きっかり1年分書いてからきちんと振り返りをしようという次第でございます。はい。私のブログでは恒例行事、話題の路線変更のお時間です。

特にここ最近の更新は重くて難しい話が多かったと思われるので、今回くらいはライトな話題にしましょうね!はい!

 年一のプチイベント、ということで皆さんにはそのようなものがございますでしょうか。

私は、母と近所の神社にお参りにいくことが、なんとなく毎年の習慣になりました。きっかけは確か、私が初詣に行ったことがないから、という理由だったからだと思うのですが、よく覚えてません(笑)

そんなわけで、私が高校生の頃から近所の神社へ初詣に行くという「習慣」が出来ました。

紅白歌合戦を見届けてすぐ、11時45分ごろに家を出て、10分ほど歩くと見えてくるこの神社。

年明け前でも既に参拝客でいっぱいの中、年明けを迎えます。

(家族の中でも特に価値観が合って仲の良い)母と水入らず過ごせる空間、深夜というまるで「イケない遊び」でもしているかのような空気がたまらなく好きで、今の今まで毎年の習慣にしています。

普段家族ぐるみで何かすることがない家である上、基本そのようなことに参加しない母が私と共に新たな習慣をもってくれたことが素直に嬉しくなった、そんなことを思いながら今回はだいぶかなり短いですが筆を置こうと思います。

たまにはこういう回があってもいいと思う。いつもかなり長いので。今回は軽めにしときます。

次回は、いい加減そろそろ語りたくなってきた推しについての記事でも書こうかなと思っています。

え?振り返り?ヤバい。いつ話そう。まあ、どこかでします。多分3月くらいでしょう。

見切り発車具合がひどいですね~(笑)

それでは、今回はここらで失礼します。読んでくださりありがとうございました!

努力が手に入れられるものは?

皆さんこんにちは。みちこです。

週のはじめからインフルエンザにかかってしまい、これを書いている現在も自宅待機期間という状態から本ブログをスタートしようと思います。

いやあ…しんどい…。

熱は中々下がらないし、喉は痛いし、声なんてまったくでないし、鼻も詰まるし咳も出るし…。

我が家では父が先に倒れ、その次に母、最後に私というまったく綺麗なドミノ倒しでインフルにかかっておりました。(父は根っからの病院嫌いなので検査などはしていないのですが、母と私は近所の病院で検査をしてインフルエンザであることが発覚したので、父もおそらくそうであろうと踏んでいます。)

ちなみに我が弟は家にいる時間をなるべく少なくし、現在までどうにかかからないようにして生きているようです。(なんでもどうしても部活の試合に出たいそうなので…。)

こういう「最後の砦」的な役割を担うのは我が家では父か私であることが多いので、今回はかなり珍しいパターンだったといえるでしょう。

何を隠そう、インフルエンザであると判定された私はこの1週間1回も授業に出られていないことが確定してしまい、その事実が悲しかったです。しかしそんなことを言っていられる暇もなく体が言うことを聞いてくれなかったので、大人しく休みました。

さて。こんなつまらない近況トークは3~4行で済ませる気だったのですが…。どうしてこうなった…。

今回は、「努力が手に入れられるもの」というテーマで書こうと思います。

最初に申し上げておきますが、これは永遠の課題であり、誰もが納得できる正解を導き出すことは出来ません。逆に言えば、今からここに書くことは私だけの答えでしかありません。そしてこの記事を書こうと思ったのは、今必死になって勉強を頑張っている受験生の皆さんがいるからです。

今どこかの目標に向けて頑張っている皆さんへ、ほんの少しだけ年を食っただけの先輩の私から、励ましでも何でもないかもしれないが、しかし大事なことを語ってみようと思います。

努力で手に入れられるもの、皆さんは何だと思いますか?

望む結果が手に入れば幸せものでしょう。しかし、誰もがそうではないことを10代後半の皆さんなら、薄々感じてきているのではないでしょうか。

そうです。努力で手に入れられるものは、必ずしも「望む結果」ではありません。

では、「望む結果」が手に入らなかった人はそのまま腐るしかないのか?

そうではありません。てか、そうであってはいけないのです。

見方を変えるんです。「望む結果」というのは、あくまでも物事の一側面でしかない、ということに。

 

ここまで言ってきて、努力で手に入れられるものは、「結果」であると、もうわかったことでしょう。

しかし、ただの「結果」ではありません。

その「結果」は、皆さんの見方次第で、希望にも絶望にもあらゆる姿を見せてくれます。

ーーー楽な言い方をしてしまえば、「結果」なんてあくまで「事実」でしかないんですよ。

その「事実」は、時に優しく包み込み、そして時に残酷に、私たちを襲ってきます。

それだけの話なんです。本当に。発想・見方を変えるだけなんですよ…。

でも苦しいことに、それをすることが、容易ではないんですよね…。

例えば、「お笑い芸人になる」という夢を持っていた人がいたとしましょう。

お笑い芸人になるために、養成所に通ったり、自分でネタを考えたりなど様々な練習をしても、有名になれるのはほんの一握りの人たちだけです。

情熱、そしてそれに見合った努力だけでは、どうにもならないんです。どんなに才能がある人だってそうです。

これが、世界の現実なんです。

残酷ですよね、この世界は。私もこれに気づいたときは、本当に残酷だと思いました。

ーーーでも、よく考えてみて下さい。

本当に、この人たちの努力は無駄だったでしょうか?

この人たちの情熱は、報われなかったものでしょうか?

私は、この人たちの努力も情熱も無駄にならないと思います。

ただし、その人自身が舵を切れるか

これ次第で、無駄になるか否かが決まります。

「舵をきる」とはどういうことか。これが、さっき私の言った見方を変えるということです。

例えば、さっきのお笑い芸人を目指していた人たちは、どんな能力があると考えられるでしょうか?

お笑い芸人には相方が必須。つまり、人と連携して笑いを生み出す、そういう生き方をする人たちです。

馬が合う合わないは別として、こういう「人と連携して何かをする」という能力には秀でていると考えることは不可能ではないでしょう。

それに、「目標に向かって何かをする」という力も当然持ち合わせています。

それは、芸人になる!という夢があった故かも知れません。

しかし、芸人を目指すということは、芸能界が決して綺麗事だけの世界ではないことも受け入れている人たちだと思います。(ここを受け入れられない人は、おそらく養成所の段階とかで早々にリタイアしていると思います。)

そのうえで目指していたのなら、それ相応の覚悟がその人には存在していることになります。

つまり、その「覚悟を持って目標に向き合い、達成に向けて努力する力」をその人は持っていることになります。

この力は、どこで何をしていくにしても必要になる能力です。

ーーーそんな能力を見に付けているなんて、本当にすごいことですよ。

 このように見方を変えれば、この人はたとえお笑い芸人になれない人生だったとしても、どこででも通用する能力を持っている人と捉えることはできます。

しかし、ここからが大事です。

それは、こうやって舵を切れるか否かはその人がいかに早くこれに気付けるか次第であるということです。

つまり、当然気持ちの問題(情熱をどうしても断ち切れないなど)で踏ん切りがつかない人もいる、ということです。

私のようにすぐに割り切れて方向転換ができる人もいれば、中々そうではない人もいると思います。

このような人の違い、なんだと思いますか?

ーーー私はひとえに、「情熱の差」だと思います。

実は私、生まれてこの方、情熱を持ち続けて何かを成そうとしたことはありません。

否、それを制限された環境下で生きてきた故に、そうせざるを得なかった、という方が正しいかも知れませんが。

何故なら、どこかで上記のように「方向転換」ができてしまうからです。

それを器用だ、生きやすい、というのならそれまででしょう。確かに生きやすいとは思います。

でも時折、もし自分が人生を揺るがすほどの情熱をかけて行動できるものがあったとしたら、すべてを捨てられたり、すべてのリスクを背負ってまでもやりたいことができたらな、と思うことはあります。

そういう、何がなんでもこの目標を達成したい、という情熱を持っている人が羨ましいです。

そういう人は余裕はないかも知れないけれど、常に全力で人生を謳歌している。

それはそれで、素晴らしい生き方だと思います。

 さて。そろそろ収拾がつかなくなってきたので、まとめに入りましょうか。

努力が手に入れられるもの。それは、「結果」です。

しかしその「結果」は、必ずしも望むものばかりではない。

否、むしろそうではない場合の方が多いと思います。

そういう時に、その「結果」を自分の中でどう解釈するかで、その後の行動も生き方も変えられるんだよ、という話をしてきました。

しかし、そう単純に割り切れない人がいることも事実。そういう人はもしかしたら、「目標に対する情熱」をめちゃくちゃ深く持っている人だったのかも知れない。だから、割り切れないからといって無理に割り切ろうとしなくて良いんだよ、むしろそれはそれで1つの生き方なんだよ、こんな話をしてきました。

 

これからどんな「結果」が待ち受けるかもわからない受験生にする話ではなかったかも知れません。

人によっては、これを読んで落ち込んでしまうこともあるかも知れない。

ただしかし、「こういう考え方もある」と心の片隅においておきながら、今自分のなかに掲げている「目標」に向かって邁進してほしいと思います。

大丈夫!後悔さえしなければそれでいいんです。てか、後悔したっていい。

時間は二度と戻らないのだから、今皆さんができる最善を尽くしてほしいな、と思います。

「最善」は必ずしも、苦しい努力である必要もないと思います。

たまには息抜きしたっていい!大丈夫です!

私なんて受験生でも普通にゲームしてましたし!やばい!(笑)

とにかく、自分に付随している時間を、他でもない大切な自分にかけられるようにしてほしいな、と思います。

長くなってしまいそうなので、今回はここで終わりにしようと思います!

次回は、年の瀬ということもあるため、ここらで少し振り返りをしてみようと思います。

もうすぐブログ部で記事を書いて1年になりますし!

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました!

迷いの境界線

皆さんこんにちは。みちこです。

さて、今回は「迷い」というテーマで話を進めていこうと思います。

最近、迷うことが本当に多いです。

小さいことだと、大学に残って課題を進めようか家に帰ろうか、とか。今日は何のBGMや飲み物をお供に課題や作業を進めようか、とか。

大きなことだと、将来のこととか。

そして目下我々二年生が直面している出来事でいうと、「ゼミ所属をどこにしようか」といったこととか。

というわけで、最近は迷っていることや機会が多いような気がします。

今回の更新も、更新の当番当日までどんな内容にしようかな、と書き溜めていたものを書いては消し書いてはまた消し…。の繰り返しです。

迷ってばかりです。

ところで皆さん、この「迷う」ということはいいことだと思いますか。

それとも悪いことだと思いますか。

結論からいうと、私は「迷う」ことを悪いことだとは思っていません。だって、「迷う」ことにはそれなりの「理由」が必要だから。

小さなことだろうと、大きなことだろうと。

いや、むしろ大きなことこそ「迷う」という過程は必要なものであると思います。

自分で納得いくまで調べて、考えればいいんです。

ただまあ、私は小さなことまで大仰に捉えて考えてしまうんですけどね。

結局思うように行動できなくて、後悔するなんてざらです。だからそこは臨機応変に、「迷いを切り捨てる」こともしなければならない。

人生とは、本当に難しい…。そう思います。

さて。この「迷い」と「迷いを切り捨てる(振り払う、の方が正確かもしれません)」の境界線はどこにあるのでしょうか。

私は昔から「切り捨てること」「妥協すること」が本当に苦手で、自分の思う通りにいかないと気が済まない性格です。(いわば「完璧主義者」とでも言いましょうか…。ただ私の完璧主義は変なポイントであっさりと終わりを迎えることもあるので、本当にこのような言葉で定義付けていいものなのかどうかは少し疑問なのですが…。)

これについて、こうなのかな、と思いついたことがあるので、少しご紹介しますね。

それは、「今迷っていることが自分に対することなのか他人(自分以外。たとえばチームなど。)に対することなのか」ということで分ければ良いのではないかとふと思いました。(このブログを書いていく途中でいきなり降ってきたのですから、本当に急な話です(笑))

 たとえば、自分の将来に関すること。

これは自分に決定権があることですよね。自分の希望を叶えられるか、実現できるかは別として、「こうなりたい」と思うこと自体は自由ですから。

こういうことは、妥協せずにじっくりと納得するまで考えるべきであると思います。

なので、こういうシチュエーションにおいては、「存分に迷っても良い」ということになります。

 しかし、時には、「迷いを切り捨てる」方が良い時もあると学びました。

これは私がアルバイトをしている時に常に直面している課題なので、現状解決策が何も見つかっていないのですが、具体的な場面を紹介しますね。

私は飲食店でアルバイトをしているのですが、その際に、「混んだ時に自分の仕事の手を休めてまで他人のフォローに入ってもいいものなのかどうか」についてずっと迷っています。先ほど述べた通り、今でも解決策は見つかっていません。

これに関しては自分の経験値を積む中で大体の感覚を掴んでいくしかないのかな、と思っているのですが、「自分に余裕ができていて、迷っているくらいならフォローに入ってしまってもよいのではないか」と思っている自分もいます。(お気付きだと思いますが、至極当たり前のことと思います。はい。なに言ってるんだこいつって思ったらすみません。はい…。)

このような事例が、先ほど言った「迷わず行動してしまう」にあたるものだと思っています。

これは「自分ではなく、他の人がどうなるか」という事例にあたるため、そういう場合は「迷いを切り捨てて」しまっていいと考えました。

しかしこの理論で行くと、「自分の将来についてあれこれ悩んでいたけど、人に話を聞きに行こう!」みたいな場合はどちらに当てはまるんだ、という疑問が湧いてくるかもしれません。

この場合は、「自分の将来について十分悩んでいた」のですから、「行動」しても何ら不思議ではないと思います。これは私の分類でいうところの「自分について迷っている時」にあたると思います。

即席で降ってきただけのしょうもない理論というか、分類の仕方なので、あまり参考にはならないかも知れませんが、私は現状このように考えています。

さて。少し考え足りない気もしますが、諸々やらなければならないことがあるため、今回はここで終わりにしようと思います。

次回は…何について話そうかな…。だいぶ「迷って」おりますが、まあまたその内浮かんでくることでしょう。

ーーー相も変わらず私のブログネタは日常に転がっているのですから。

というわけで、今回のブログはここまでにしようと思います。

最後まで読んでいただいてありがとうございました!

古典の現パロに挑戦!

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は前回予告していたのとは少し違う形になりますが、授業関連のことについて書こうかな、と思っております。

今回は、タイトル通り、「古典の現パロ」に挑戦しようかと思います。

作品は、現在「演習」という授業で扱っている「うたたね」という作品にしようかと思います。

古典作品のパロディーなんて難しそう…。と思われるかも知れません。私も最初そう思っていました。

ですが、自分で担当箇所を発表したり、逆に皆さんの発表を聞いたりすると新たな発見があるんですよね…。この感覚がたまらなくて、「古典楽しい!」という気持ちになりながら、この授業のあとは多幸感を抱えながら帰宅しております。

あ、まず「演習」という授業について説明しなければなりませんね。

演習授業とは、その授業内で予め決められたテーマや作品(今回の場合は「うたたね」という作品)を受講生で分担して読んでいくことで、その作品に対する理解を深めよう!という種類の授業です。

つまり、先生が一方的に講義するタイプの授業ではなく、「学生自らが講義をする」タイプの授業になります。

これもまた難しそうな…。と思われたことでしょう。大丈夫です。

本学では1年生からこの「演習授業」というタイプの授業の基礎を学びます。どういうやり方をして、こういう内容を発表するんだよ、といったことを実践的に学ぶことができます。

慣れないとかなり大変ですが、達成感はすごいですし、先生や他の受講生の意見・感想などの自分にない要素を感じられるとめちゃくちゃ勉強になります!

少しは授業のイメージがついてくださるといいなあ…。ついてくれたでしょうか?

さて。いよいよ本題に移りましょうか…。古典の現パロ…。はじめての試みなので、私自身もめちゃくちゃ緊張しています。

現時点ではまだまだ続きがあるため、後から見たら設定がごちゃごちゃになってる箇所もありそうですが、あくまで現時点で授業内で学んだ箇所までの現パロになります。

そもそも尼寺とか、現代に置き換えたらどういう組織になるんだ、とか思うところもあるので、辻褄自体は本当に合ってない現パロです。そこは最初に言及しておきます。すみません。

それでは、僭越ながら、始めさせて頂きます。

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 私、ごく普通の女の子!今ね、とある男性に恋をしているの。でもね、その人忙しいのか、なかなか連絡も取れないし、会えないから、ちょっと寂しい。遠距離恋愛ってとこね。今日もツイッターの裏垢に呟こっかなー。「今日もLINE来なかった。ぴえん。」よし。投稿完了っと。

はあ~…。遠距離恋愛って辛い。ホント辛い。いっそ、どこか遠くに旅に出ちゃおうかな~。

と思ったら…。あれ!?「今日は遊びに行くからね。」だって!!!!はぁ~…。やっぱり来てくれるのね~。好き。

その夜に、彼は私のところに遊びに来てくれた。ちょうど家族も仕事か何かでいないし。なんにも邪魔されない。やっぱり彼が来てくれるなんて…。夢のようね…。

でも、あの人すぐ帰って行っちゃう。やだ。つらいよ…。

最近は用事が多いとかで、私のところに遊びにも来てくれなくなっちゃったんだよね~。でもなんか怪しくない?何、いきなり「用事が多い」って。どう考えても言い訳よね。私と遊ぶの、嫌になっちゃったんだよね…。

やっぱ、あんな人との恋なんて、諦めた方が良かったよね…。最初から出会わなければよかった…。

ーーーよし!ここにいるのやめよ!ここにいても、あの人のこと思い出しちゃうし。いつあの人がくるとも限らないんだから。スマホも置いて、旅に出よう!!

思い立ったが吉日。早速旅支度を初めて…と思ったけど、スマホまで置くのは、さすがにやり過ぎなかな…?だってこの現代社会において、スマホなかったら死ぬよね?

でも決めたんだよ?彼から連絡くるくらいなら、いっそ連絡取れるもの全部置いて、どこか知らない遠いところへ行く、って…。そう決めたのに…。まだあの人から連絡が来るのを期待してる自分がいる…。

ーーーあ~~~!!!!もう!!!うじうじ悩んでても仕方ない!!!置いてくって決めたら置いてくの!!!

そして、その日の夜に、こっそり家を抜け出し、あてもなくただ歩き続けた。

 

ーーーなんか雨降ってて寒いしビショビショなんですけど。でも、もうあの人をきっぱり忘れるためなら!

そう思って、歩き続けた。スマホもないからホントに道が分からないし、今自分がどこにいるのかも分からない。

バスとか電車とかも使おうかな、って思ったけど手持ちのお金もそんなないし。てかここ街の中心地からは離れた場所だから、あんまバスとか来ないんだよね~。そのせいで、通学もどんだけ時間かかるんだよってくらいかかるし。

道もよく分からないまま歩き続けた先に、ちょっとした集落があるのを見つけた。ちなみにこの集落に見覚えはない。そもそもここがどこなのかも、スマホ置いてきたせいで分かんないし。

見つかると面倒なので、目立たないように歩いていたが、突然名も知らぬおばちゃんに声をかけられた。

「あんたどないしたん。そんな恰好で。

ーーーあらまずぶ濡れじゃない。さほら、こっち来なさいな。どこからきたの?家の人は?

まさか、家出少女?」

根掘り葉掘り聞いてくるのが、少しうざったくも感じたが、同時に少し嬉しくもあって、私は「ちょっと人生嫌になって旅をしてるところ」と答えた。

別に死ぬわけじゃないけど、でも私のことを誰も知らない人のところへ行きたいのだとそう話すと、

「それならこの集落を少し奥にいくと、そういうような子たちを預かってるところがあるんだよ。案内したげるから、一緒に行くかい?」と親切にも教えてくれ、一緒にそこへ向かうことになった。

ーーーそして道中、なぜか飴をもらった。

 

やがて、その場所にたどり着いた。この親切なおばさんの言う通り、何も聞かずに私たちを保護してくれ、私と同じような理由で家に帰りたくない子たちにも数人会って話をすることが出来た。

本当にこのような場所があったことで、段々と心が落ち着いていき、これでようやっと彼のことも忘れられると安堵した。

でもふと思い直す。

ーーーもし、ここで一生を暮らすことになったら?

あいつのことを忘れるためだけに旅をして、運よくこんなところに拾われたけれど、これは私が生涯を投げ打ってまでしたかったことなの…?

そう考えたら途端に恐ろしくなった。あの後結局親が迎えに来たけど、その時の私はここを天国だと思っていたので、「知らない!帰らない!やだ!」と言って追い返してしまった。

急に胸がざわざわし始めてきた。なんでこんなことしちゃったんだろう…。どうしたらいいの…。うう…。私のバカ…。あいつのLINEブロックするとか、そういうことでいくらでも解決できたくない?

あ~やだ。死にたくなってきた。これぞホントに死にたいやつ…。っていうか、今にしてみればあいつマジでダメ男よね??なんでずっと付き合ってたの?連絡とってたの?はあ~無理死ぬ。マジで死にたい。

え?なんか周りにある木とか草とか全部あいつに見えてきたんだけど?は???マジでやめて~~~。無理。死んだ。

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今授業でやっているところは、こんなところでしょうか…。

忠実に再現できているかどうかは二の次として、やはりとても難しかった!!!

やっぱり現代と古典世界とでは常識になっていることが違い過ぎて、「今でいう○○」にぴったり当てはまらない場合も多いです。

でも今回の試みを通して、同時に作品に対する理解も深まりました。やはり能動的に何か自分で生み出すというのは、一番学びが定着する方法のようです。

この続きは…。要望があれば、ということで。

実はこの記事も、リクエストを頂いたんですよ。いつも授業後に感想を言い合っている友人&先輩がいるのですが、その話の流れでこのような話になり、ブログ部員だしせっかくだから!とこのように書いてみた次第でございます。

実はその話をしている中の一人も、同じブログ部員の同期だったりしますが、その話は置いておいて。

目下課題は、来週の授業までにそのいつメンの中の誰かが読んでくれていることを祈ります。ぜひあの…。感想をお手柔らかにお願いします…。

というところで、今回はお開きとしたいと思います。

中々私のブログがとらない体裁の記事だったので、書いていてとても新鮮な感じがしました。

こういうのも悪くないですね。

次回も…。まあ、授業関連になってしまいます。この時期、目下二年生の諸君らを悩ませている卒業論文のゼミの話について、少し自分の思うところを綴ってみようかな、と思います。

自分の思考の整理も兼ねて。

それではこの辺で失礼します。

最後まで読んで頂きありがとうございました!

「徒然なる」読書

皆さんこんにちは。みちこです。

なんと更新日をうっかり忘れてしまっており、大急ぎで執筆しております。はい…。

今回は、この間言っていた「日記」のようなものではなく、またいつもの気まぐれで思いついたことを書こうかなと思います。これぞまさに、「徒然なるままに」というわけです(笑)

前回のブログで、読書に関することを述べたのですが、今回もそれと関わることです。

というのも、最近本を衝動買いしてしまったんですよね…。それも2冊。

 私最近思うところがありまして、とある本を購入しました。ジャンルとしてはいわゆる「自己啓発本」の類と言われるもので、購入場所は例のジュンク堂書店池袋本店さんです(笑)

ここ最近ブログを綴っていても思うのですが(そしてもしかしたら読者の皆さんの中でお分かりの方もいらっしゃるかも知れませんが)、私はとかく「自分に興味のある人」であるらしいということを以前よりはっきりと理解するようになりました。(遅いですね…(笑))

なので、気がついたら自分のことを考えるようになっていました。

自分ってどういう人なんだろう?他と比べて何が優れているのだろう?など、気がつくとそのようなことばかりを考えてはよく友達を巻き込んでそのような話をしています。

そこではたと思いつきました。

ーーーこれは、このまま「自己分析」をしてしまえばいいのではないか、と。

ただ、私にとって「自己分析」というのは普段からついやってしまっていることなので、今更本など買う必要があるのかと、そう思いました。

しかしまあ、個々シチュエーションごとにそれが出来ていたとしても、全体としてまとめられないのなら出来ていないも同然と言いますか…そのまとめる方法を知りたかった、と言いますか…。

そう思ったので、購入を決めました。

八木仁平『世界一やさしい「才能」の見つけ方』(KADOKAWA、2023年)

買ったのがこちらの本になります。

こちらまだ途中までしか読めていないのですが、正直「目から鱗」ほどの衝撃はやはりなかったな、と思いました。予想通りでした。

というのも、先ほど言ったように、私にとって自己分析とはそこまで苦ではなく、むしろ進んで取り組んでいるくらいのことだからです。

この本は、タイトルに「才能の見つけ方」とあるように普通は悲観的に考えてしまうような自身の欠点を見方を変えて長所にしよう、と言う考え方が前提にあるんです。

この「普通は」というところがミソでして、私はこの本に書かれている、「見方を変えて自身の欠点を長所として捉える」という方法を、既に実践していたのです。現に、この本を読む前から私は自分の長所について述べることは苦ではなく、少なくとも数個は浮かぶ状態のままこの本を買ったんです。

つまり、「普通の考え方」を私はしていなかった。最初から「目から鱗」の方法で自分のことを考えていたんです。

これを「自己の正当性」、つまり「自分が好きだから自分の存在を肯定的に捉えているんだ」と言えばそれまでです。ぐうの音も出ません。

でも、この本によると、「そのぐらいのマインドチェンジをしない限り、自分の長所や強みなどは見つからない」というのです。逆に言えば、それぐらい自分のことを肯定的に捉えていいのです。

私の周りには、自分のことを否定的に捉えている人が多いので、なんかどうにかしてこの気持ち届いてほしいな、と思いながら日々を過ごしていたりします。

まあ、私が特殊枠なのでしょうがね。自分で言うのもなんですが、多分ここまで自分のことを肯定的に捉えられている人もそういないのではないかと思います。そんな私が他人のマインドを変えようなんて大変不躾かつおこがましいことですが、でも「考え方を・見方を変えるだけで全く違う景色が見えるのだ」という話は伝わって欲しいな、と思います。それを実践するかはともかくとして。「共感」されずとも「理解」されればいいな、と思っています。

ーーー実はこの話は、だいぶ前から皆さんにお伝えしたかったことなんです。あまりにも自我が出過ぎている上に、「共感」はされないどころか、むしろ「批判」さえされるのではないかと恐れていたところもあります。

ですがもうここまで来てしまった以上、あとには引けません。既に手遅れだったんですよね。自我を出し過ぎていた。もう戻れまい。

なので、思いのままを綴らせて頂きます。

もしかしたら対極にいる方々からしたら、まぶしい話かもしれません。鬱陶しいかもしれません。

なのでまあ、こういう考え方もあるんだな、程度に留めておいた方がいいかもしれません。誰もかれもが、私と同じような考え方を出来るとは思わないことな、というセルフツッコミを入れておきます。はい。申し訳ございません。

 長々と話しましたが、これ以外にも興味深いことはたくさん書かれてありました。ですがまだ読み終わってないので、今後の更新でじっくり語れる機会をどこかで作れたらと思っております。

 

 

次に紹介するのは、本日の話。揚げたてほやほやの話です。

なんと、本学の生協にこんな本が売ってるのを見つけてしまいました。

日部星花『光る君と謎解きを 源氏物語転生譚』(宝島社、2024年)

小説は基本「表紙買い」してしまう私が惹かれたのは、表紙のイラストもそうですが(美術部に所属していたというのも「表紙買い」をしてしまう理由として大いに機能していると思われる)、一際光る「光る君を」という文字!

中古文学、ひいては『源氏物語』に興味のある私にとってピッタリの内容では!?と思ってあらすじを見てみると、転生モノ…。

実は私、転生モノはあまり好き好んで読まないのです…。

だがしかし、古典文学と現代文学がどのようにマッチングしているのか、という興味が湧いたのもまた事実。というわけで、買うはずのなかったその本を手に取り、レジへと向かいました。

無事に本を買い終わり、空きコマ中に半分を読み進め、一コマ授業を受け終わってから帰りの電車内でも読みふけり、寒くて手がかじかむ中、最寄り駅のホームで読み終わるまで目が離せず、しっかり文字を追っていました。

そしてなんと、多分2~3時間くらいですべて読み終えてしまいました…。

前回のブログで、最近小説を読まないという話をしたと思うのですが、この小説は惹かれてしまいましたね…。

感想を語るとネタバレになってしまうのですが、まあ核心には触れない形で紹介していこうかな、と思います。

このお話は令和の時代に就活生をやってる女子大生が、ひょんなことから『源氏物語』の紫上に転生してしまう、というお話です。そこで、原作でも起きる事件(主には葵上の死と夕顔の死、六条御息所の嫉妬など)を光る君(光源氏)と共に解決していこう、という話です。

実はこの主人公は、文学部に通っており、原作である『源氏物語』のことは一通りぼんやりとではあるが知っている、という設定になっています。なので、小説を読みながらある程度『源氏物語』の内容に触れることが出来ます。

現在は大河ドラマでも話題沸騰中の『源氏物語』の世界観を気軽に知ることができ、さらにミステリー小説の要素もあるため、気軽に『源氏物語』を知ることが出来ます。

入り口としては非常にオススメなので、よろしければお手に取ってみてくださいな。

まあでも…色々と知っている身からすると、なかなかに唸ってしまう場面も多かったので、あくまで「エンタメ」「入口」として見て頂ければ幸いです。

一緒に古典文学の沼にハマりましょう!!!!

というところで、今回は終わろうかと思います。

ちなみに余談ですが、その一コマ空いた後の授業で同じ授業を履修している学生ら+先生で談笑もしました。その時の授業の内容から、この本の話まで、非常に楽しい時間でした。

この場を借りてお礼申し上げます!ありがとうございました!!

というわけで、次回は「私の取っている授業」という内容で興味を持ってさらに語りたかったことを綴ろうかな、と思います。

私のことを良く知る方々なら、まあ…お察しでしょう。「推し語り」が炸裂しましょうぞ。

思った以上にこのブログ部という場は、寛容な場所のようです。

というところで、本日のブログを締めたいと思います。

長々と失礼いたしました!!(本当に)

ここまでお読みいただきありがとうございました!!

日文生と読書

皆さんこんにちは。みちこです。

なんとあまり遅刻をしない私が、ブログの更新を遅らせてしまっている、というところから話を始めようかと思います。

というのも、授業で発表するための資料作成、サークル活動のお仕事、自主ゼミのお仕事などあまりにも立て込んでしまっていたからです。(にしてもこんなに更新を滞らせたのも初めてで…ご迷惑おかけして申し訳ございません…。)

そして免許取得のため、「試験場」というところに「学科試験」を受けに行っていたこともあり(「学科試験」に受かって始めて免許が取得できるんです…)それの勉強をする時間も確保しなければならず…という訳で、中々大変な時間を過ごしておりました。

と、言い訳はここまでとしまして。

本日のお話は、この頃少し思っていることを書き残しておこうかな、と思います。

最近私、何が一番楽しいかと言いますと、「大学の授業」なんです!

夏休み終わる頃なんて大学の授業が楽しみすぎて、後期早く来ないかな~授業楽しみだなあ~なんて思いながら日々を過ごしていました。

夏休みに教習所に通っていた、という話をしたと思いますが、教官に「大学で何が一番楽しい?」と聞かれた時に、「授業」と答えて案の定びっくりされたくらいには授業が好きなんです。

というのも、まあ古典文学を学ぶのが楽しいからなんですよね…

今まで知らなかったこと、イメージしていたものと違ったことを、授業受けていくたびに感じられるこの感覚が楽しくて…

そこで今回は、私が今現在思っている古典文学に対する思いや考えを、「読書」という切り口からお話しようと思います。

そしてこのブログ、本当に様々な方に見られているらしいので、本学の先生方に見られているのかと思うと大変恐縮なのですが、一学生がこんなことを思っているんだな、と思ってくれれば幸いです…。

このブログでは少しお話しているのですが、私は2年生に上がったくらいの頃から中古文学に興味を持ち始めました。

その理由は中古文学関連の授業を1年生の時に取っていた、ということと、大河ドラマ「光る君へ」が今年の年始に始まったことの2つです。

昔高校の授業で聴いていてなんとなく好きだった『更級日記』に興味を持って取った授業でしたが、ありがたいことにそこに、2024年1月から始まった「光る君へ」への放送も絡まり、さらに興味を持った、というのがその理由です。

そこから2年生始めに「中古自主ゼミ」に入ろうと思って所属し、さらに興味関心を深めていくべく、私は2年生から大学の図書館で定期的に本を借りて読む、ということを習慣にしています。

理由としては、卒論を書くにあたって知っておいたほうが良い情報や知識を早くから知っておきたかったからという理由ですね。

ーーー3年生では就活も始まりますし、こういうことは興味関心の赴くままにやったほうが鮮度が高いといいますか…。吸収力が高いといいますか…。

と思ったので、2年生の始めの方から借りることが習慣になりました。

そうして読んでいくうちに、新たな価値観・知識などをたくさん知ることとなります。(これは毎授業ごと授業を受けていてもそう感じます。何かしら新たな知識や価値観の収穫があるんです。)

本を借り続けて読んでいくうちに、これが読書本来の楽しみ方か、とだんだん思うようになりました。

勉強する、という行為にもこれと似たような楽しみ方があると思いますが、読書にも同じような効果があることを初めて実感しました。

そしてそんなことを続けていたら、いつしか私は普通の小説を読むことに抵抗を覚えてしまうくらい学術書を読むのが好きになりました!

自分でもびっくりするほど、新たな知識を手に入れられることの快感にとらわれているのです…。

この段階まできて、ふと思ったことがあります。

昔から、「読書は人を豊かにする」とか「読書は考える力を育てる」などいわれて本を読むことが推奨されてきましたが、私はその意味がずっと分かりませんでした。

「小説のような娯楽的な要素を含む書物を読んでも、本当に心を豊かにすることができるのか」、「心を豊かにするとはどういうことなのか」と考えていたからです。

改めて考えると、「心を豊かにする」とはどういうことなのでしょうね。

「想像力を膨らませられる」という意味での「心の豊かさ」なら確かに小説でも満たせると思います。

しかし私は、世間一般にいう「心の豊かさ」とはそうではないような気がずっとしていたのです。

それはどちらかというと、「知的好奇心をくすぐる」類のもの。それすなわち、「書物を読むことで知識を手に入れる」という意味での「心の豊かさ」です。

知識を手に入れるということは、物事のあらゆる事象を深く考えることのできる情報・概念などを手に入れることのできる、ということ。

つまり、この場合の「心の豊かさ」とは、「思考力の深さ」を意味していることになるかと思います。

大人はよく、子どもに「本を読みなさい」と言いますが、(そしてある一定の割合の日文の人間は、どのようなジャンルであれ「本を読むこと」を結果として積み重ねてきたから、今こうして日本文学科に在籍しているわけですが)あれはいったいどのような意味で言っているのでしょうね。

私にはこの二種類の意味があるような気がしてなりません。

そして、後者の方がより本の面白さの神髄に気づいた人向けの、読書の「真の目的」であるような気がしています。

つまり、最初の入り口は小説でもいいんです。まずは「本を読む」ということに慣れないと、「本を読めない」んですから。

私の母がそうなのですが、母曰く「文字が連綿と続いていると読めない」というタイプの人です。

つまり、「本を読む」ことには、それなりの気力と体力が必要なんです。

それを、内容はなんでもいいからとにかく「本を読み終わる」という練習をする、という意味での「本を読む」なのだと思います。

そして「本を読む」ことに慣れてきて、苦手意識のなくなってきた人がさらにハードルの高い読書をしようと考えた場合。これが先ほど言った「知的好奇心を満たす」という意味での「本を読む」です。

この学科に入学した時、とある先生が仰っていたことがあります。「日本文学科に入学するということは、『本物の書物を読む力が身につく』」のだ、と。

だいぶかなり私の意訳ではありますが、このようなことを仰っていたと記憶しています。

ここでいう「本物の書物」とは、もしかしたら、今私が密かに感じている思いが出発点だったりするのかな、などと勝手ながら考えています。

で、私が新たな楽しみを見出した「読書」なのですが…。

「読む時間がない!!!!!」

本当に読む時間がなくなってきました。

というのも、昔このブログでも紹介したように、様々なことに挑戦した結果、忙しくも充実した毎日を送ることとなってしまい…。

読む時間がなくなってきてしまっています…。

長期休みを利用して読むしかなくなって来ているというなんとも悲しい事態が起きているのですが…。

致し方ないということですね…。はい…。

ちなみに本筋とは関係ないのですが、古典文学が好きになりすぎて、最近書く文章が古典文学の現代語訳みたいになってきました(笑)

簡潔な文章を書けなくなってきていると感じる今日このごろ、というお話をしながら、今回は終わりたいと思います。

最後に、更新滞らせてしまい本当にすみませんでした!!!

次回はちゃんと遅れないように投稿します!!!

で、そんな次回は、少し趣向を変えて、本当の日記のようなことを書こうかな、と思います。

ーーーえ?本当の日記って何かって?

それは次回のお楽しみ、ということで。

あえて普通の記事を書いてみようと思います。まあ、私が普通の記事を書いたことなどほとんどありませんので、お察しください(笑)

というわけで、今回はこれで失礼します。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

「理由」を大切に

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、「理由」をテーマに話をしたいと思います。

以前に話した、「ルーツ」とも関わりがあり、重なってしまうことも多くあると思いますが、最後まで読んで頂けたら幸いです。

(そしておそらくだいぶ複雑な話なので、分かりにくい話かもしれません…。哲学というか、なんというか…。そんな感じのお話です。)

では、始めます。

タイトルに据えた、「理由」を大切に、という言葉。これは、将来の私への願望でもあります。

私はこの度誕生日を迎え、めでたく20歳を迎えることとなりました。

これは、20になって少し浮かれている私が綴る、ちょっとした希望のような備忘録です。

皆さんは、様々なものの「理由」って意識したことありますか?

今回は、その様々な理由の中でも、いわゆる「自分の思考のクセ」のような「理由」についてお話したいと思います。

なんじゃそれ、と思うでしょう。

例えばのシチュエーションです。

皆さんには、問題集を解いていて、自分が何回も間違えてしまう問題ってありましたか?

このたとえでは想像もつかない、という人は、日常のちょっとしたクセでもいいです。

分からないけどなんかいつも間違えてしまうようなこと(例えば、冷蔵庫の飲み物の位置が覚えられないとか)とか、どうしてもできないこと、失敗し続けていることって、何かありますか?

では、何故それはどうしていつも間違えてしまうんでしょうか?

こう考えても、分からない、って意見がほとんどだと思います。私もそうです。

ただ、こんなものはすぐに答えが出るものでもないでしょう。

だってすぐに答えがでているものなら、私たちはすぐに対策方法を思いつくか、人に聞くなど、何かしらのアクションを取ることが出来ます。(もちろん、それらの「分からない物事」から目を背ける、放っておく、という選択肢もありますが…。)

克服できないようなこと、苦手続きなもの、自分の欠点…

そういったものには、ほとんどのものが「理由」を見つけることが難しいんです。

その「理由を見つけるのが難しい事柄」にどのように向き合っていけばよいのか、というのが今回の記事の核の部分となります。

まず、これがどういうことなのか、何故難しいのか、説明したいと思います。

おそらくですが、「そういったものの理由が分からない」ということは、それが「自分であること」の証拠であると私は考えています。

「分からない」ということは、理屈では説明できないもの、ということ。

つまり、「無意識」の状態なんです。

そしてその「無意識の状態」とはすなわち、「それが自分という存在を形作る要素の一つであるということ」という意味であると私は考えています。

そしてまた、「大切にする」といっても、ただそっとそのままにしておくのも違うと思います。

「大切な宝物のように、自分を大事にする」、そういう意味でもないと思います。

「自分を大切にする」ということの意味は、ただ自分に優しい・甘いだけではなく、経験した苦しいことも辛いことも全部ひっくるめて、いつか「いい思い出だ」と言えるような、未来の自分に胸を張れるような、そんなことだと思います。

「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがあります。まさにああいった感じのイメージです。

経験、ひいては歩んできた自分の人生(あるいは過去)そのものが、今の自分・そして未来の自分を形作っていくような、ああいったイメージです。

そして、その「経験」や「過去」あるいは「人生」には、必ず「理由」があるんです。

例えば、親が俳優業をしている子どもがいたとしましょう。

その子どもがたとえ親のように俳優を目指しても、それにはそれ相応の理由がある。

親の姿がかっこいいとか、尊敬する、とか。そしてそれらの感情には「エピソード」という名の「理由」がある。

逆も然りです。親のようにはなりたくないと、その子供が別の道を進んだとしても、そこには、家の環境や親の影響が必ずどこかにある。そしてそれが無意識下で「自分という存在」を形作っていくんです。

ここまで、「自分の存在」は周りの環境や人(あるいは出会った人やモノ)に影響されて「無意識のうちに」出来上がっていくこと、だからこそそれらに「理由」を見つけることが難しいということを説明してきました。

大変に難しいことを説明しているので、ひとりよがりな説明になっていないかすごく心配です。

読む方も大変なカロリーを消費していることを承知のうえ、次にこういったものにどう対処していけばいいのか、現時点での私の回答を紹介しようと思います。

結論からいうと、正直私も現時点では回答が見つかっていません。こんな大口叩いておいて、え?って感じですよね…。

というのも、結局自分の性格を変えることに抵抗があるのか、そもそもこのようにできた性格を変えることが出来るのか、というところもまだ分からないんです。

欠点であるところを無理やり克服したとしても、その時の私に今と同じような長所が残っているのか、残らないのなら変える必要がないのではないか、でも欠点は直したい…。と、堂々巡りをしている状態なんです。今も結論は出てません。難しいですね、人生って。

ただ、上記のような仕組みで「思考のクセ」が出来上がっていると理解できたことはいいことなのかな、と思います。

私はある出来事があってから反面教師にしているものがあるんです。ここでは詳細は伏せますが、そこで気づいたのが「思考のクセ」の仕組みでした。

望んでいなくとも、周りの環境や人の影響を良くも悪くも受けてしまっている、と気づいた時がありました。

なので私は、まずは周りの影響を受けて自分の人格は出来上がっているものだと割り切ることにしました。自分の性格・傾向も、利点・欠点、いいも悪いも自分で変えることが難しいものだと、そう思うことにしました。

じゃあ変える必要がないのか、というとそれは違いますし、どうにかしたいんですけどね…。

まだ迷いがあるから進めていないような気がします。

ただ、これを解決するキーワードがさっき言った「理由」なのではないかとは思っています。

無意識下の自分の性格(あるいは自分という存在)を「理由」という形で「意識」している状態にすることで、自覚の材料にもなりますし、人に話すための素材としても機能します。

自覚したら、あとはもうこっちのもの。どんな感情を抱くか、どんなアクションを取るか、人それぞれです。

この「理由」が大事だと思った直近のエピソードを紹介します。

私は現在、車の免許を取るために教習所に通っているのですが、実技の教習を受けている時に、どうして今のような行動を取ったの?と聞かれる機会が多くありました。

その中で自分の中にあるきちんと理由を説明できると、じゃあ次からはこうした方がいいかもね、とアドバイスをもらえる、ということがありました。この時、「理由」を説明することで、自分の傾向と対策を同時に知ることが出来るんだ!と気付きました。

これはかなり貴重かつ大事な経験なのではないかと思い、今回こうしてとんでもなく難しいテーマで書こうと思いついてしまった次第なのです…。どうかお許しください…。

未だに自分ときちんと向き合うことは出来ていません。ただ、「自分の存在」には何かしらの「理由」があると気づいた今、この「理由」が私自身を理解するために必要なことであり、だからこそ大事にしたいのだ、という決意表明をしながら、本記事を終えたいと思います。

今回は頭の痛くなるような難しいテーマに最後まで付き合って頂き本当にありがとうございました。

少しでも何かが印象に残ってくれたのなら、もうそれで合格だと思います。私自身、現時点では何もかも分からないことだらけですから。これから様々な経験をしていく中で何かしらのカギを掴んでいけるのかな、と思います。

次回は、私からこの「理由」を引き出してくれる「言葉(あるいは言語化)」について記そうかな、と思っています。

それでは、失礼いたします。

自分の弱さと向き合うことは

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は少し趣向を変えて、自分自身を見つめ直してみようという試みの記事にしようと思います。

その理由が、来月4日に誕生日を迎え、20歳になるからです。

つまり、本記事が10代ラストの更新となるわけです。

そのため、これまでの自分をふりかえりつつ、今後の自分に向けての抱負等も語れたらよいなと思っております。

毎度のことながら自分語りが非常に多くて申し訳ございませんが、最後までお付き合いいただけたら幸いです。

それでは、始めます。

今回は趣向を変える、と最初に明言した通り、今までどちらかというとポジティブ要素(≒教訓めいたこと?)ばかり伝えてきたと思うのですが、本記事は自身の欠点に触れてみようと思います。

突然ですが皆さん、自分の長所と短所、どちらの方がより多く思いつきますか?

人それぞれだと思いますが、私は長所の方が多く思いつきます。

それはなぜかというと、「短所を長所に言い換えているから」なんです。

私はいつからか、そうやって生きてきてしまいました。なので今までのブログでも、自身の短所についてあまり触れたことがなかったんです。

簡単に言えば、「逃げていた」んですね。

誰だって自分の短所や嫌なところからは逃げたい、目を背けたいと思うことでしょう。

私も同じです。ずっと逃げていました。

しかし、どうしてもそのようなものと向き合わなければならない時はありますよね。

私にとってはそれが正しく、「今」でした。

私は現在、夏休みを教習所に通うこととアルバイト(飲食店)に時間を費やしています。

そのどちらでも、色々と上手くいかないことが続きました。

バイト先では自分が仕事を上手く回せなかったせいで同じ時間で働いていた皆さんに多大な迷惑をかけてしまったり、車の運転でも、慣れていないこともありますが、色々と見極めることが出来ずに危険性が高い運転をしていたりと…。

例を挙げればきりがないのですが、このように最近の私は失敗続きで、少し傷心気味です。

人によっては、「そのくらいで意気消沈するの!?」とびっくりする方もいるかもしれません。

しかし私の性格上、これがどうしても仕方のないことでして…。

おそらく私の完璧主義者と理想主義者な面がそうさせていると思うのですが、私は人より何かができないことに対してひどく落ち込む性格です。

これでもだいぶ前を向けた方なのですが、昔は落ち込んだらそのままずっとそのことばかり(失敗してしまったという「事実のみ」に対して)を考えてさらに沈んでしまうタイプでした。

皆さんはどうでしょう?自分が失敗続きでどうしようもない時は、どうしますか?

今回私は、この二つのことに関して、それぞれ次のような対処法を取りました。

まず、車の運転についてですね。

車の運転は慣れもあるので仕方ないですが、一度注意されたところはなるべく注意されないように意識はするようにしています。

有効な対策法が、教習内で言われたことをそのまま自分の言葉で言い換えながら反芻して教官に言うことです。(しかし教官がかなりの確率で「今までどんなことを注意されてきましたか?」と聞いてくるので、その際にきちんと答えられるように自分の中で準備しておく、という場面の方が多いですが…。)

次に、バイト先のミスについてです。

その日は上手く回せなくて散々迷惑をかけたという自覚があり、事実注意も受けたので、すごく悔しかったです。(事実上がった後に裏で泣いてしまったので…。泣いたって意味のないことなんですけどね…。今となっては恥ずかしいことをしたな、と思います。)

その後、迷ったのですが、社員さんに自分のどこをどう直せばあの場を上手く切り抜けられたと思うのか聞いてみました。

ありがたいことに、その答えのない問いに親身になって考えて下さり、次に何をどう気を付けたらいいのかをより明確に理解することが出来ました。

今回のこの出来事で、私は色んなことを学ぶことができたな、と思いました。

まず、「分からないなら人に頼ってもいい」ということ。

昔の私ならまず出来なかったであろうことです。というのも私、人に頼るのが本当に下手くそなんですよ。

全部自分で何とかしなきゃ、という気持ちが先行して、人にこれ分からないです、とか、これやってもらってもいいですか?といったことが「言えない」人だったんです。

自分に教える手間も時間も割いてまで人に迷惑が掛かるくらいなら、自分で見て覚えてしまおうというのが私の考えでした。しかしこれで何かが出来た試しなどありません。余りにも自分が不器用(かつ要領が悪い)だという性質を全く考慮していなかったんですよね…。

ちなみに「人に頼ることが出来ない」自分が嫌で悩んでいたこともありました。今も上手く頼れるわけではないので、上手に頼れている人が羨ましいです…。こういう意味では、不器用って、本当に損な性格ですね…。教えてもらえることで何かを得ることもあるのに、その機会を失ってしまっているわけですから…。

とあることを経験して、徐々に人に頼ることを覚えていきましたが、まだまだ「人に頼る」ことにも課題点がありそうです。

そして、「答えのない問いに、急いて結論を出すこともなかっただろうな」ということも少し思いました。

バイト先での話に戻りますが、私は社員さんに聞いてから正直少し後悔しました。

その理由は、前に述べた「人に頼る」ことが苦手なことともリンクしているのですが、何より「人それぞれ答えの違う問いに対して、何故私だけの答えを他人に聞いてしまっているのだろう」という迷いからくるものでした。

結局めちゃくちゃ丁寧に教えてくださって、答えとまではいかないものの、ヒントのようなものを得ることは出来たので良かったものの、相手側からしたら困惑はしてしまっただろうな…とは思いました。

おそらく、学校の勉強のような「答えがある」ものが世の中の全てだと思ってしまっているのが原因だと思います。

社会に出たら、そんなことはまったくなくて、答えどころかヒントすらないような課題に直面するのだろうな、その度にどのようにそれらと向き合っていかなければならないのかを考えていかないとな、と思いました。

ただ、この二つの出来事で共通して言えるのは、「反省を生かすために行動できた」という点は良かっただろうな、というところです。

反省まではしても、行動までは出来なかった過去と今の自分を比較すると、今の自分は少しだけ誇らしく思っています。

さて、ここまでとんでもなく重い話をしてきたという自覚はあります。しかもかなり個人的なことを綴っているという自覚もあります。申し訳ございません。

私はおそらくこんな観点からこんな文章しか書けないので、いつも話が重いんですが、なんか…ホントに…すみません…はい…。

もっと気楽に生きられたらな、と思うこともありますが、もう性質でしょう。付き合っていくしかないのかな、とは思っています。

性質といえば、教習中に教官に言われた言葉の中で、「特性は変えることが難しいから、自分の特性を理解した上でどういう行動を取ればいいかを考えてみて」というものがありました。

この言葉に私は、なるほどな、と思い、少し救われました。

短所は変えるべきものではなくて、受け入れて、カバーしていくものなのだとこの言葉で気づくことが出来ました。

実はここまでしてきた二つの出来事のミソは、どちらも私の短所に関わる話なんですよ。

それは、「同時並行して複数の物事を行うことが出来ない」こと「周りの状況に合わせて臨機応変に対応する」こと。

この二つが本当に致命的に欠如していて。全くできないんです。

車の運転に求められるのは視野を広くもって、危険を避けながら安全に運転することですし、飲食店のバイトに求められる能力も、同時並行して何かをやる(あることをしている間に別の何かができる、といったことです。つまり、「時間を有効活用する能力」のことです。)能力や臨機応変に動く能力なんですよね。

実は飲食店のバイトを始めたのは、自分がこの能力が欠如していると思っていたから、つまり「苦手の克服」をするために始めたことなんです。

前に私はこのブログで、アルバイトは単なるお金稼ぎの手段じゃなくて自身のスキルアップのため、といったことを言っていた記事があったかと思います。

その言葉通り、私は苦手から逃げずに克服するためにこのバイトを始めました。

「苦手から逃げない」と決めたのも、ある言葉がきっかけです。

小学生の時に水泳教室に通っていたのですが、あることが原因で辞めてしまいました。

そのきっかけが中学受験の勉強を始めるから、ということもありましたが、その最たる原因は、「担当の先生が厳しかったから」です。

辞める時、最後の指導が終わったタイミングで、私は先生に今までありがとうございました、と言いに行きました。その時に言われた言葉が、「今後の人生で同じような目にあっても逃げるなよ」だったんです。おそらく辞めた理由を誰かから聞いたか何かで知っていたんでしょう。あるいは、分かっていたのかもしれません。

その時は分かりませんでしたが、結果ずっと覚えているくらいには私の心に残り続けた言葉でした。

この言葉があって、私は大学生になる前に、「やりたいことはすべてやりきる。後悔のないように。苦手からも逃げない。」と決めて様々なことに挑戦している、という次第です。

今、人生で初めて自分の苦手と向き合って、正直しんどいという感想しか出てきません。辛いです。

でも、学びはありました。19年生きてきて、ようやっとここにたどりつきました。

遅すぎますかね?どうでしょう?

もっと早くからこの痛みを経験すればよかったなあ…なんて今では思っています。

10代最後の備忘録は、このような形で幕を閉じたいと思います。

ちなみにこれらすべてのことは、過去1週間以内に起こったことです。

ーーーえ、よくここまで語り通せたな、と?

それは私が聞きたいです(笑)

そんな茶番は良しとして。

次回の更新は…何にしようかな…まあまたその場のノリと勢いで決めます(笑)

それでは、失礼いたします。

「勉強する」って楽しいんですよ!

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、最近思い始めてきた、「勉強って本来楽しくあるべきでは?」というテーマについてお話していこうと思います。

私は今本学の日本文学科で、主に日本文学について学んでいるわけなんですが、今とても楽しんですよね。

自分の好きなことを学ぶことが出来ているということももちろんあると思いますが、私はそれだけではないような気がしてきました。

なので今回は自分の疑問に自分で答えを出していこうといういわば禅問答のようなブログとなっております。

てか、今まで私が書いてきたブログの中に、禅問答じゃないブログがあったでしょうか。

その答えは皆さまの中にしまっておくこととしましょう。

さて。では、はじめて参りましょう。

勉強って、本来楽しいものであるべきでは?という疑問に私はイエスと自信をもって答えたいです。

いつぞやかに話したかも知れませんが、小さい頃のことを思い出してみてください。

小さい頃、色んな遊びをしませんでしたか?

かくれんぼ、鬼ごっこ、砂遊び、サッカー…

外遊びだけじゃありません。おままごとや人形あそび、絵を描いたりなど…

その中で皆さん独自の遊び方を編み出して遊んだりしていませんでしたか?

こういう、独自の遊び方を編み出す行為って、既存のものに手を加えることでさらに面白く楽しく遊びたい!って思いから生まれたものだと思うんですよね。

こういうことを「勉強」と言ってしまうと少し堅苦しいかも知れませんので、「学習」と言いましょうか。

実は、「勉強」ってこれ(「学習」)と同じようなことを、対象を変えてやっているだけなんですよね。本来なら。

何かしらの方法で新しい知識を知ること、そしてそれを自分がより楽しいと思えるように創意工夫して、自分の中で楽しむ。

だから勉強って、本来もっと単純で、純粋な思いの下に生まれている行為なはずなんです。

私は小さい頃から受験、受験と言われ続けて生きてきてしまったため、この当たり前だけど大事な感情を忘れてしまっていたんですよね…。

ただただ問題を与えられて、それを解いていくだけの苦しい時間…。

勉強なんて問題を解けなかったら苦行に早変わりです。

中学・高校に至るまで、私はずっと「勉強は苦行だ…」と思って生きてきました。

しかし大学に入ってから、私のその概念は早くも覆されることとなりました。

ーーー大学の課題やら何やらが「楽しくて」仕方がないんです。

こないだもレポート課題がなどと言ってひーふー言っており、結局5週間ずっと何かしらの課題に追われて最終的に課題だけで合計で約2万文字程度書いております。

そんな生活を続けている中にも、楽しみなレポート課題・力を入れようと思った課題・書くことがすらすらを浮かんできてしまう課題などは書いていて本当に楽しかったです。

一種の息抜きみたいになっていましたね。

課題すら息抜きと私の口からそんな言葉が出てくる人生が来るとは思いませんでしたけども、これが現実です。

こんなつらい思いをしてまでもなお、「楽しい」と思えるようになったんですよね。

では高校以前の私と今の私とでは何が違うのか。

一番大きいのは、授業内で「新たな視点」を得るということだと思います。

高校以前の授業に、あまり「新たな視点を得る」授業ってないと思うんですけど、大学ではそんなものばかりです。

今まで信じ込んでいた常識から一歩先をいったような新たな視点・新たな理解・新たな解釈が生まれていくんです。そのおかげで今私は当初興味なんてほとんどなかった平安文学への興味の扉を開けることと相なるわけですが、その話は置いておいて。

その「新たな視点」というものを得ると、勉強って限りなく楽しいものになるんですよね。まるで自分の世界が広くなったような、そんな錯覚さえ覚えるようになります。

で、大事なのはここからです。

「新たな視点」ってどのようなところから生まれるんだと思いますか?

ーーー答えは、「自分が主体となって学ぶ事」。これに尽きます。

大学の授業に出ていても、ただそこに座って教授の話をふ~んと聞いているだけじゃ意味がないんです。

そこにちゃんと自分がいるかいないか、というのは本当に大事なことなんです。

だってそうしないと、自分の今まで持っている知識と今聞いている話をどうやって結び付けられるでしょう。

このようなことに気づいてから、私は勉強というものが途端に楽しく思えるようになりました。

私は現在、車の免許を取得するために教習所に通っているのですが、そこで道路標識や道路表示などという存在を学びました。

それを学んでから、街の至る所にある標識や表示を意識して見るようになったんです。

これって、この知識を自分で主体的に学んでいなければ気づきもしないことだし、一生注意の向かないところだったと思うんですよね…。

こう考えると、「学ぶ」というのはただ単に「知識を得る」だけじゃなくて、「自分の世界や視野を広げる、新たな視点を獲得する」ということにつながってくるのではないかと思いました。

そしてね、勉強って実は椅子に座って知識を覚えることだけが勉強じゃないんですよね。

それをバイトから学んだよ~という話は既にしているので、まだ読んでないよ~という方は、よろしければ以下のリンクから読んでみてください。

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/author/namekata/

ここの7/7の投稿がそれに該当します。

なのでね、勉強する能力って、全然学生までで完結することじゃないんですよね。

大人になっても学習する能力って使いますし、むしろ大人になってからの方が使う場面が多くなるかもしれません(笑)

でもそんなこと言ったって目の前の勉強は辛い~という高校生以下の学生さんもいらっしゃるかもしれません。

そうですよね、辛いですよね。お気持ち、お察しします。

できないものを延々とやり続けるのって、すごくストレスのかかることですよね…。

でも、そういう時は少し視点を変えてみてください。

例えば基本事項。

英語なら文法。数学なら公式など、各科目に「常識みたいにされてるけどよく意味も分からず覚えてること」ってありませんか?

そういうのって、なんでそんなことになってるんでしょうね。

こういう「なぜ?」を勉強に取り入れていくと、少し違った景色が見えてくるかも知れませんね。

ちなみにこの方法を取り入れたことで、苦手だった英語の文法が少し楽しいものになった、という経験を私は持っています。

さて、ここいらにしておきましょう。

勉強とは、知識を得て、それを活用することで新たな視点を得て、それで世界の見え方が変わるから面白いんだ、そしてそれは普段常識であると思うことこそ改めて問うてみると何かまた面白いものが見えるかも知れませんね、という話をしてきました。

相変わらず見切り発車で書いているこのブログは、なんと50分程度で書き上げたものになります。

ヤバいですね、私。自己主張強すぎて死にたくなる時は間々あります。

というわけで、今回はこれまで。

次回は…いよいよ19歳ラストの更新となるので、少し早いですが、19年の人生の振り返りと、20年目に向けた抱負を綴るなどしましょうかね…。

どうせまた見切り発車(以下略)

それでは、失礼いたします。

「ルーツ」は知るも話すもおもしろい

皆さんこんにちは。みちこです。

今回も今回とて書きたいことが多すぎて、ギリギリまで決まりませんでした(笑)

私にはこのブログで書きたいことが多すぎるんです。色々な物事に気づく方で、それが私の思考を深めてくれるこの感覚が大好きなので。

色々迷った挙句、今回は、「ルーツ」というテーマでお話をしようと思います。

皆さん、自分のルーツって考えたことありますか?

自分がどのようにして今の自分になりえたか、一度でも考えてみたことはありますでしょうか?

私はいつからか、他人のルーツを聞くことも、自分のルーツを話すことも好きになりました。

人は全員が違うルーツを持つからこそ、同じ機関に所属する、同じ興味を持つ人達同士でも全然違うルートをたどってきている、ということが往々にしてあります。

それを人と話す中で知ることが出来る、ということはこの上なく面白いことだと私は感じています。

そしてこの度、私がこのような記事を書くに至った理由としては、本学で始まった「リレーエッセイ」という企画に由来しています。

少し前から始動していた企画なので、ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、日文の公式noteから、本学教員が「リレーエッセイ」と題して個性豊かな「ルーツ」を書いております。

それぞれの学問領域に先生方の人生がどのように交わっていき、リンクしていくのか、その過程を垣間見ることが出来ます!

この「リレーエッセイ」は以下のリンクから読むことが出来ます↓

https://note.com/nichijo_nichibun

では、こちらの企画に倣いまして、本学日文生・ブログ部員である私の「ルーツ」も綴らせて頂こうと思います。しかし、結構他のブログ記事で小出しにしていることも多いので、内容が被ってしまうと思います。本記事は、いわゆる「まとめ記事」になるかも知れないということを申し添えておきます。

私の文学に対する「ルーツ」を話すにどうしても外せない存在「朗読」についてお話する必要があります。

私は小さい頃から読書が好きだった、というよりかは「朗読」が好きな子でした。

国内・海外問わずおとぎ話を朗読し、「プレイリスト」ならぬ「朗読リスト」を作って、その順番通りに読むのが、小学校低学年頃の私のお気に入りの時間でした。

ちなみに小学校低学年くらいまで、私は「朗読」が好きすぎるがゆえに「黙読」ができない子供でした。

なので、授業中に教科書のここからここまでを読んでください~といわれると小さな声で声に出して読んでいましたね。傍から見たらとても変な子だったのではないでしょうか。(今も中々な変人の一面があると自負しておりますが…(笑))

小学校中学年くらいになると、もう少し字数の多い本を読み始めます。

ハマってた作品などはあまり覚えていませんが、小学校の教室の文庫コーナーにあった本をひたすらに読み漁っていたような記憶があります。ここでもファンタジー系の小説が好きでした。好みは低学年の頃とはあまり変わっていませんね。

小学校高学年頃から、徐々に好きなジャンルが変わっていきます。それは「ミステリー」です。

今でも覚えているのですが、当時「夢水清志郎」シリーズにドハマりして、そのシリーズを延々と読み漁っていました。

私は中学受験をしているので、小学校の高学年ともなるとそちらの勉強が忙しくなってくる時期なのですが、そんなことそっちのけで読んでたこともありました。

ちなみに朗読はずっと好きですよ…?今でも大好きな私の趣味であり、特技です。

さて、中学校に上がると、小学校高学年の延長でミステリーをさらに読み始めます。

ここまでくると一般の小説とかにも手を出し始めていたような気がします。

東野圭吾さんとか、湊かなえさんとか…。いつの時期だったかあまり覚えていないのですが、おそらく中学生でしょう(笑)

ここで私は今年で8年来になるずっと一緒にいる友人からアニメを教えてもらい、そこから自分で声優さんにハマることとなります。

そこから美術部に所属したこともあり、絵やアニメの方に自身の熱情が傾いてしまっているので、中学生時代と小説・文学はあまり語れることがありません…。すみませんが…。

転換期は高校に上がってから。高校二年生の時に古文の授業を受け持ってくれていた先生がきっかけで、『更級日記』に興味を持ちます。

何故興味を持ったかと言うと、これがまた至極単純な話なのですが、更級作者に共感したからです。

『更級日記』には、「『源氏物語』オタク」であった作者のエピソードが綴られています。

その話を高校の授業で教えてもらった際に、私はこの時代にもオタクの子がいたんだ!という驚きを感じ、同時に少し親近感を抱きました。

そこから私は高校の図書館で日記文学のビギナーズクラシックスシリーズや、源氏物語を読み始めます。そこから私は、日記文学に少し興味を持つことになります。

ちなみに私が文学部系統に興味を持ったのは、日本語の方面からでしたので、こちらはサブの理由と言ってしまえばそうですね(笑)

しかしこのサブの理由が結局は今の私を成り立たせていることになりますから、人生分からないものです、本当に(笑)

そして、晴れてこちらの大学に入ることとなりました。

そして、当初興味のあった日本語学の授業に期待を寄せていたのですが…

その授業を受けていくうちに、頭の中にはてなマークが沢山浮かんできてしまいました…。

そこで諦めずに理解しようとする姿勢を見せればよかったのですが、同時期に受講していた中古の文学史の授業で、私は中古文学に興味を持ち始めることとなり…。

しかし日本語学も全ての分野が難しい!と思っていたわけでなく、興味のある分野もあったので、現在それに関連する授業も受講しており、現在期末レポートを鋭意作成中です…。

話を戻して中古文学の話をしますと、その授業を通じて私は、新たな視点を得た、と思ったから興味を持ちました。

高校の古典の授業で日本文学を学ぶことと、大学で日本文学を学ぶこととは全く異なると私は思っています。

大学での日本文学の授業って、それまで自分がこういうものだと教えられてきた、あるいはそう思い込んできたものを180度ひっくり返してくれるんですよ。

それを知る感覚が本当に楽しくて。視野が広がったような心持になるんですよね。

知識欲が満たされていくその快感を覚えてしまってから、私は中古文学に興味を持つこととなりました。

そして、皆さんご存知の!大河ドラマ!これも今の私が非常に影響を受けたものです。

実は、大河ドラマ「光る君へ」は脚本を本学科出身の大石静氏が、和歌考証を本学名誉教授の高野晴代先生がご担当なさっているんです!

そりゃ学科としても一大イベントであると認識せざるを得ません。

私もその時流に乗り、大河ドラマを視聴していたら、見事にはまりまして。

中古文学史を受講して身に付けた知識とドラマの内容とがリンクしていたり、はたまた違っていたりと、様々な要素から見ることが出来、中古文学を学ぶことがさらに楽しくなりました。

結果、私は二年次から「自主ゼミ」という本学特有のゼミに所属することとなり、さらに興味の幅を広げていくこととなりました。

期末レポートの作成も中々架橋に入っている中で本記事を書いているので、今回はここまでとしたいと思います。

ここまで去年度までの話をしましたが、二年前期の授業を受けても面白くて紹介したい授業などまだまだたくさんあるので、そちらも次回以降の更新で改めて紹介出来たらと思います。

ちなみに、本記事の趣旨とは全く関係ございませんが、本日は私が今年から新たにハマり、「推し」になった方の誕生日です!ゆっくりイラストなど描いてお祝いしたいのですが、いかんせんレポートが…(以下略)

いつかその新たな推しさんについても綴る記事を作成したいと思っておりますので、よろしければお付き合いをお願い致します。

それでは、今回はこちらで失礼致します。

ここまで読んで頂きありがとうございました。